内省ログ

心内発話を写し取る。

「見える」もの、「聞こえる」もの

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※この記事は、前回 の「見る」「聞く」の話題を受けて、その続きとなっています。

 

naisaylog.hatenablog.com

 

 

 

 

 

今回は「見える」と「聞こえる」についての話です。

 

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さて、いきなりですが、上の画像のような状況で、「どこから見えるか」と問われたら、何と答えるでしょう。

 

ここから見える

 

 

それでは、同じ状況で「どこから聞こえるか」という問いに変えたら、どのような答えになるでしょうか。

 

あそこから聞こえる

 

 

 

「Aから見える」と「Aから聞こえる」では、Aの中身が異なります。

 

「見える」のときの「Aから」は、観測者の位置を表しています。

さっきの例だと「ここ」。観測者の位置を指しています。

 

一方で、「聞こえる」のときの「Aから」は、対象の位置を表しています。

さっきの例だと「あそこ」。 対象である花火の位置を指しています。

 

 

ここから、どのようなことが分かるでしょうか。

 

「あそこから聞こえる」という文では、音が向こうから観測者の方へ向かってきているということを描写しています。

「聞こえる」というとき、対象から発されるもの、すなわち〈音〉が意識されています

 

他方、「ここから見える」という文では、「から」の出発点は観測者になっています。

つまり、〈音〉のような向こうから観測者の方に向かってくる媒体を意識しているということはなく、観測者側から対象に向けて視線を届け、〈姿〉をつかみ取りにいくという意識なのです。

 

そこに、対象から観測者の目に向かってくる〈光〉は意識されていません。

あくまで「ここ(観測者の側)から」なのです。

すなわち「観測者から」発される視線が、対象に向かっていくという感覚なのです。

 

〈音〉の場合は、対象から発される付随情報です。その付随情報が、観測者の元に届きます。

しかし、「見える」によって捉えられる〈姿〉というのは、観測者が視線を届けて直接捉えた結果であり、〈光〉や〈音〉などの媒介を挟まない、対象〈そのもの〉なのです。

 

以上をまとめると、「見える」というとき、対象からやってくる〈光〉は意識されていません

感覚としては、観測者自らが〈そのもの〉をつかみ取るという意識がそこにあります。

 

 

 

「見える」「聞こえる」に対するこのような解釈は、「見る」「聞く」の様子とも重なります。

前回の記事で「見る」「聞く」について考え、至った結論はこうでした。

 

「見る」は、対象〈そのもの〉を捉えているという意識である。

そして、「聞く」は、対象から発される〈音〉を捉えているという意識である。

 

 

そして、ここでは

 

「見える」は、媒介を挟まず、観測者自らが対象〈そのもの〉をつかみ取りにいく。

「聞こえる」は、〈音〉が観測者の方に向かってくる。

 

と結論づけました。

 

 

2つの結論を重ね合わせると、以下のような感覚で知覚が行われていると言えます。

 

視覚行為(「見る」/「見える」)では、〈光〉という媒介は意識されず、対象〈そのもの〉を直接捉えているという感覚を持っている。

聴覚行為(「聞く」/「聞こえる」)では、〈音〉が意識され、それを対象から発される付随情報として捉えている。

 

科学的には、「見る」「聞く」という行為は、感覚器官が光や音に反応して起こる現象だとされています。

しかし、言葉の使い方を見ていくと、科学的事実と我々の感覚にはギャップがあると考えられます。

 

そして、同列に並べられることもある「見る」行為と「聞く」行為の間にも、大きな違いがあることがわかりました。

 

 

(ざっと見た感想ですが、)ここで出た結論は、英語をはじめ他の言語にも言えそうです。これらは人類全体に通じた感覚なのかもしれません。 

 

 

 

以上、前回の記事と併せて、言葉から見る「知覚の感覚」について考えてみました。

ここまで長々と読んでいただきありがとうございました。