「見る」こと、「聞く」こと
「見る」という行為は、「光」が目に入ることで行われる。
「聞く」という行為は、「空気の振動」が耳に入ることで行われる。
現代では、このような考え方が常識となっています。
これらはまぎれもなく、現代の科学が解き明かした、重要な知見です。
しかし、「見る」「聞く」という動詞の使い方を見てみると、我々の感覚の中では、そうはなっていないことが窺えます。
例えば、「花火を鑑賞する」ということを言うとき。
「見る」という言葉を使うならば、「花火を見る」と言います。
一方、「聞く」という言葉を使うならば、「花火の音を聞く」と言います。
こう並べてみると、2つの動詞の違いが見えてきます。
「を」で表される知覚の対象*1が、「見る」と「聞く」とで異なっています。
「見る」の場合は、「花火」
「聞く」の場合は、「花火の音」
ここからわかること。
我々にとって、「見る」は花火〈そのもの〉の姿を捉えている、という感覚なのではないでしょうか。
冒頭に、「「見る」という行為は、目に「光」が入ることで起こるとされている」という前提を話しました。
しかし、我々の感覚の中では、「光」という存在は意識されず、「見る」対象〈そのもの〉を直接認識していると感ずることで、「見る」の対象が単に「花火」となっているのではないでしょうか。
一方、「聞く」は、花火の中の一部の情報である〈音〉をキャッチしているに過ぎないという感覚なのでしょう。
花火〈そのもの〉を直接認識しているのではなく、〈音〉という媒介によって、間接的に「花火」を認識しているという意識なのです。
もしくは、「花火」を認識しているという感覚は無く、あくまでそこから発生した〈音〉だけを認識しているという感覚なのかもしれません。
いずれにしても、花火〈そのもの〉ではなく、その〈音〉を捉えるという意識であるから、「聞く」の対象が「花火の音」となるのではないでしょうか。
「花火を聞く」という言い方も無くはないのでしょうが、いささか詩的で技巧的な感じがします。
おそらく、一般的な表現ではないでしょう。
また、少し考えると「先生の話を聞く」「玉音放送を聞く」などの言い方は自然であることに気づきます。
これも、先ほどと同様に、感覚の違いで説明できます。
先ほどの「花火の音を聞く」という行為は、物理的な空気の揺れ(=「音」)を知覚しているという感覚だと言えます。
この「音」というのは、花火〈そのもの〉ではなく、花火の様子を知覚するための媒介、もしくは音それ自体なのでした。
花火〈そのもの〉は、聴覚ではなく視覚で感じてるようです。
そのため、「花火(そのもの)を聞く」ではなく、「花火の(情報の媒介である/付随情報である)音を聞く」となるのです。
一方、「話を聞く」「玉音放送を聞く」という行為で焦点が当たっているのは、空気の揺れとしての「音」ではなく、その〈内容〉にあると言えます。
音そのものではなく、その奥にある意味の部分です。
「音」にくらべて〈内容〉というのは、「先生の話」「玉音放送」〈そのもの〉にかなり近い存在です。
そのため、「話の(媒介である/付随情報である)音を聞く」ではなく、「話(そのもの)を聞く」と言うようになるのです。
「空気の振動が耳に入る」、すなわち「聞く」という同様の行為であっても、意識の注がれ方の違いから、「花火の音を聞く」と「話を聞く」では、「聞く」対象が異なると言えます。
次回は「見える」「聞こえる」について考えていきます。
*1:目的格とか言ったりしますが、この呼び方にあまりなじめないので、ここでは使わないことにします。