卒論を公開したい!!
私の生涯で最大のworksは、おそらく、数ヶ月前に書いた卒業論文になるでしょう。後にも先にも、論文レベルの大きな何かを生み出すことは、きっとないと思います。
しかし、そのようなものが、提出のための指導を除き、一切誰の目にも触れないのは少し寂しいもの。
そこで私は、卒業論文をここで公開しようと考えました。
学問の肥やしにもならぬようなものを、誰かに読んでもらう道理はありませんが、ブログだったらいいでしょ。何をあげようとも。(ハナホジ
自己満足ですよん!!
ということで、
「引用「~と思う」における「だ」の脱落 ――〈主観明示用法〉と〈不確実表示用法〉を中心に――」
です!
どうぞ、ご査収ください。
ただリンクを貼り付けるだけだと味気ないですね。
でも、解説とすると長くなってしますので、ちょっとテキトーな抄録、もしくは、ちょっと詳しい目次、みたいなものを残します。
内容解説
この論文のテーマは、「引用句末のダの脱落」、いわゆる「だ抜き言葉」です。
ここでは、引用の中でも「~と思う」に絞って取り上げています。
まず、ダの脱落の発生傾向をつかんでいきます。
そのために、「~と思う」を意味の面から2つに分類しました。
〈主観明示用法〉
「と思う」形式の文のうち、個人的な意見を述べるもの。
例:「戦後の正しい教育を受けた若者に正しい判断をしてもらわねばならないと思います。」
〈不確実表示用法〉
「と思う」形式の文のうち、情報を不確実なものとして述べるもの。
例:(「あいつ、大学、来てるかな。」と問われて)
「はあ、来てると思います。」
この分類に従って「~と思う」の用例を2つに分け、それぞれのダの脱落率を調べました。
その結果、〈不確実表示用法〉に比べ、〈主観明示用法〉で脱落が起こりやすいという結果が出ました。
次は、ダの脱落が文にどのような影響を与えるかについてです。
ここでは、「引用」と「ムード形式」の対立から論を進めています。
ここで言う「ムード形式」が何であるかを簡単に説明すると、引用動詞「~と思う」が、助動詞「~だろう」と同じ働きをするということです。
「思う」は本来、「思考する」という行為を表す動詞です。しかし、〈不確実表示用法〉の「思う」は、行為を表しているというよりも、話し手の捉え方(けっこう確信度が高い推量)を表しています。
例:「あいつは大学に来てると思います。」
この文の「と思う」が、「だろう」と同じような働きだということです。
この「引用」と「ムード形式」という形式の違いは、〈主観明示用法〉〈不確実表示用法〉で区別される用法の違いと深く関わっています。
詳しくは論文の中で述べていますが、〈主観明示用法〉の文は典型的な「引用」であり、〈不確実表示用法〉の「思う」は、「ムード形式」に近い傾向が見られます。
形式と用法は相関関係にあり、互いに連動しているのです。
最後に、これを前提とした上で、ダを脱落させると文にどのような影響を与えるのかを考察しています。
いろいろすっ飛ばして極々簡単に言うと、ダの脱落は、形式を「ムード形式」から「典型的な引用文」へ、意味を〈不確実表示用法〉から〈主観明示用法〉へと変化させる力を持っているという結論になっています。
図示すると、以下のようになります。
「ダの有無」、「形式」、「用法」の3つの要素が連動しており、ダを脱落させることで、文の形式と用法を、左辺から右辺に変えるのです。
ダ入り → ダ脱落
形式 〈不確実表示用法〉 → 〈主観明示用法〉
用法 ムード形式 → 典型的な引用文
以上、内容をざっくりざっくりとまとめてみました。骨組みだけしかピックアップしていないので、なんでこうなるの?というところは多々あるかと思います。
まぁ、あくまで「ちょっと詳しい目次」なので、許してください。
反省点が、あるんです。
そう、ものを書いたら常に後悔がつきまといます。
ここからは、その反省点を何点か書いていきます。
①そもそも、ダが脱落したと言えるのか?
論をはじめるにあたり、私は「引用でダの脱落が起こる」という前提から入っています。
しかし、この現象は本当に「脱落」と言えるのか、という指摘を受けました。
つまり、「名詞(形容動詞)+だ+と思う」が基本の形であるとするのではなく、「と思う」内部に「だ」が入るかどうかは、品詞にかかわらず自由であると考えることはできないか、という指摘です。
これは、「~と思う」という文のニュートラルな状態が、どんな思考であるかを述べる〈主観明示用法〉であり、それに断定や判断を表す「だ」を付けることで、結果的に〈不確実表示用法〉になるという考え方です。
この点については、あまり考えていなかったことだったので、目から鱗でした。
これを解決するためには、例えば、引用でのダの有無を現代から遡って通時的に観察するなどしなければいけないかもしれません。
そこで、昔の発話では、今よりもダが入っている割合が高いとなれば、ダが脱落していると言えるでしょう。
(データの少なさから、話し言葉では難しいかもしれませんが。)
ただ、私自身の規範意識では、直接引用でない限りはダが必須であるため、「これは脱落現象である」という説明の方がなじむな~という程度に考えています。
②先行研究の読み違い
これは、結構致命傷ともなり得る反省点です。
先行研究として取り上げた森山(1992)では、〈不確実表示用法〉およびムード形式になるケースを、「思う」が言い切りの形である場合に限定しています。
私は、この部分を読み違えており、「思う」が過去や否定の場合にもこの区分を適用してしまっていました。
たまたま論文内では大きな不具合には繋がらなかったものの、定義が異なると徐々に歪みが出てしまうことが考えられるため、あらかじめ定義を拡張すべきだったなぁと反省しています。
③客観性に乏しい
「終わりに」でも書いたのですが、分類や分析を内省に頼るところがかなり大きくなってしまいました。
つまり、「ゑ?わいはそう思はざるよ??」と言われればそこまでなのです。
研究するにあたっては、内省だけではなく、誰が試行しても再現可能な、科学的な論証が求められます。(現代語を対象とした言語学では、常に付きまとう課題なのかもしれません。)
よし、こんな感じで終わりにしよう。
書いているうちに、当時のエキサイティングな記憶がよみがえってきました。
やっぱり、研究ってエキサイティングですよ!!!
最後まで読んでくださってありがとうございます。
質問やご指摘がありましたら、コメントでよろしくお願いします!
「見える」もの、「聞こえる」もの
※この記事は、前回 の「見る」「聞く」の話題を受けて、その続きとなっています。
今回は「見える」と「聞こえる」についての話です。
さて、いきなりですが、上の画像のような状況で、「どこから見えるか」と問われたら、何と答えるでしょう。
「ここから見える」
それでは、同じ状況で「どこから聞こえるか」という問いに変えたら、どのような答えになるでしょうか。
「あそこから聞こえる」
「Aから見える」と「Aから聞こえる」では、Aの中身が異なります。
「見える」のときの「Aから」は、観測者の位置を表しています。
さっきの例だと「ここ」。観測者の位置を指しています。
一方で、「聞こえる」のときの「Aから」は、対象の位置を表しています。
さっきの例だと「あそこ」。 対象である花火の位置を指しています。
ここから、どのようなことが分かるでしょうか。
「あそこから聞こえる」という文では、音が向こうから観測者の方へ向かってきているということを描写しています。
「聞こえる」というとき、対象から発されるもの、すなわち〈音〉が意識されています。
他方、「ここから見える」という文では、「から」の出発点は観測者になっています。
つまり、〈音〉のような向こうから観測者の方に向かってくる媒体を意識しているということはなく、観測者側から対象に向けて視線を届け、〈姿〉をつかみ取りにいくという意識なのです。
そこに、対象から観測者の目に向かってくる〈光〉は意識されていません。
あくまで「ここ(観測者の側)から」なのです。
すなわち「観測者から」発される視線が、対象に向かっていくという感覚なのです。
〈音〉の場合は、対象から発される付随情報です。その付随情報が、観測者の元に届きます。
しかし、「見える」によって捉えられる〈姿〉というのは、観測者が視線を届けて直接捉えた結果であり、〈光〉や〈音〉などの媒介を挟まない、対象〈そのもの〉なのです。
以上をまとめると、「見える」というとき、対象からやってくる〈光〉は意識されていません。
感覚としては、観測者自らが〈そのもの〉をつかみ取るという意識がそこにあります。
「見える」「聞こえる」に対するこのような解釈は、「見る」「聞く」の様子とも重なります。
前回の記事で「見る」「聞く」について考え、至った結論はこうでした。
「見る」は、対象〈そのもの〉を捉えているという意識である。
そして、「聞く」は、対象から発される〈音〉を捉えているという意識である。
そして、ここでは
「見える」は、媒介を挟まず、観測者自らが対象〈そのもの〉をつかみ取りにいく。
「聞こえる」は、〈音〉が観測者の方に向かってくる。
と結論づけました。
2つの結論を重ね合わせると、以下のような感覚で知覚が行われていると言えます。
視覚行為(「見る」/「見える」)では、〈光〉という媒介は意識されず、対象〈そのもの〉を直接捉えているという感覚を持っている。
聴覚行為(「聞く」/「聞こえる」)では、〈音〉が意識され、それを対象から発される付随情報として捉えている。
科学的には、「見る」「聞く」という行為は、感覚器官が光や音に反応して起こる現象だとされています。
しかし、言葉の使い方を見ていくと、科学的事実と我々の感覚にはギャップがあると考えられます。
そして、同列に並べられることもある「見る」行為と「聞く」行為の間にも、大きな違いがあることがわかりました。
(ざっと見た感想ですが、)ここで出た結論は、英語をはじめ他の言語にも言えそうです。これらは人類全体に通じた感覚なのかもしれません。
以上、前回の記事と併せて、言葉から見る「知覚の感覚」について考えてみました。
ここまで長々と読んでいただきありがとうございました。
「見る」こと、「聞く」こと
「見る」という行為は、「光」が目に入ることで行われる。
「聞く」という行為は、「空気の振動」が耳に入ることで行われる。
現代では、このような考え方が常識となっています。
これらはまぎれもなく、現代の科学が解き明かした、重要な知見です。
しかし、「見る」「聞く」という動詞の使い方を見てみると、我々の感覚の中では、そうはなっていないことが窺えます。
例えば、「花火を鑑賞する」ということを言うとき。
「見る」という言葉を使うならば、「花火を見る」と言います。
一方、「聞く」という言葉を使うならば、「花火の音を聞く」と言います。
こう並べてみると、2つの動詞の違いが見えてきます。
「を」で表される知覚の対象*1が、「見る」と「聞く」とで異なっています。
「見る」の場合は、「花火」
「聞く」の場合は、「花火の音」
ここからわかること。
我々にとって、「見る」は花火〈そのもの〉の姿を捉えている、という感覚なのではないでしょうか。
冒頭に、「「見る」という行為は、目に「光」が入ることで起こるとされている」という前提を話しました。
しかし、我々の感覚の中では、「光」という存在は意識されず、「見る」対象〈そのもの〉を直接認識していると感ずることで、「見る」の対象が単に「花火」となっているのではないでしょうか。
一方、「聞く」は、花火の中の一部の情報である〈音〉をキャッチしているに過ぎないという感覚なのでしょう。
花火〈そのもの〉を直接認識しているのではなく、〈音〉という媒介によって、間接的に「花火」を認識しているという意識なのです。
もしくは、「花火」を認識しているという感覚は無く、あくまでそこから発生した〈音〉だけを認識しているという感覚なのかもしれません。
いずれにしても、花火〈そのもの〉ではなく、その〈音〉を捉えるという意識であるから、「聞く」の対象が「花火の音」となるのではないでしょうか。
「花火を聞く」という言い方も無くはないのでしょうが、いささか詩的で技巧的な感じがします。
おそらく、一般的な表現ではないでしょう。
また、少し考えると「先生の話を聞く」「玉音放送を聞く」などの言い方は自然であることに気づきます。
これも、先ほどと同様に、感覚の違いで説明できます。
先ほどの「花火の音を聞く」という行為は、物理的な空気の揺れ(=「音」)を知覚しているという感覚だと言えます。
この「音」というのは、花火〈そのもの〉ではなく、花火の様子を知覚するための媒介、もしくは音それ自体なのでした。
花火〈そのもの〉は、聴覚ではなく視覚で感じてるようです。
そのため、「花火(そのもの)を聞く」ではなく、「花火の(情報の媒介である/付随情報である)音を聞く」となるのです。
一方、「話を聞く」「玉音放送を聞く」という行為で焦点が当たっているのは、空気の揺れとしての「音」ではなく、その〈内容〉にあると言えます。
音そのものではなく、その奥にある意味の部分です。
「音」にくらべて〈内容〉というのは、「先生の話」「玉音放送」〈そのもの〉にかなり近い存在です。
そのため、「話の(媒介である/付随情報である)音を聞く」ではなく、「話(そのもの)を聞く」と言うようになるのです。
「空気の振動が耳に入る」、すなわち「聞く」という同様の行為であっても、意識の注がれ方の違いから、「花火の音を聞く」と「話を聞く」では、「聞く」対象が異なると言えます。
次回は「見える」「聞こえる」について考えていきます。
*1:目的格とか言ったりしますが、この呼び方にあまりなじめないので、ここでは使わないことにします。
「おはよう」は便利?
仲のよい友達との挨拶、皆さんは何と言いますか。
朝は、「おはよう」
はい、私もそうです。
じゃあ、昼は?
「こんにちは」ですか?
夜だったら「こんばんは」ですか?
私は、友達に対して「こんにちは」「こんばんは」とは言いません。
なんか、疎遠な感じがしませんか?
この感覚は、多分個人差があると思います。
でも、こんな記事が出たりしているので、多くの人が持っている感覚なんじゃないかと推測しています。
上の記事の概要を説明すると、
午後でも「おはよう」が使われることがある。
友達に対して「こんにちは」「こんばんは」は使いにくい。
だから、「おはよう」で代替している。
このような内容です。
きっと皆さんの中にも、
友達に対して「おはよう」は使うけど、
「こんにちは」と「こんばんは」は使わない
という人がいるでしょう。
では、なぜ、友達相手に「こんにちは」「こんばんは」が使いにくいのでしょうか。
私は、「おはようございます」と「おはよう」の関係にあると考えています。
通常、朝の挨拶は、
目上の人に対しては「おはようございます」
友達や目下の人に対しては「おはよう」
を使います。
「おはよう」は、「ございます」の有無で、丁寧さを切り替えることができるということです。
では、「こんにちは」「こんばんは」についてはどうでしょうか。
これらの挨拶には、1通りの言い方しかなく、丁寧な言い方と、くだけた言い方の区別はありません。
その結果何が起こるかというと、冒頭に言ったような「「こんにちは」「こんばんは」友達には使いにくい問題」です。
目上の人に対しての挨拶として「こんにちは」や「こんばんは」が使われるので、友達に対しても同じ言い方をすると、必要以上に丁寧に聞こえ、結果として疎遠な感じが出てしまうのだと考えられます。
しかし、ここで一つ疑問が出てきます。
なぜ、「こんにちは」「こんばんは」は、丁寧な言い方として使われているのでしょう。
「おはようございます」は、語尾に「ございます」が入っており、典型的な丁寧表現であると言えるでしょう。
しかし、「こんにちは」「こんばんは」に関してはそのようなことはなく、どちらかと言えば、「おはよう」の類に近いような気がします。
つまり、「おはよう」と共に、「こんにちは」「こんばんは」も友達に使う挨拶として広まる方が自然だったのではないかということです。
しかし、この考察は現実の使われ方とは食い違っています。
う~ん、なんでだろう。
解決の糸口は見出せていません。
社会言語学的な語用論の問題なんでしょうね。
あるいは、語史をたどると何か見えてくるかも?
いずれにしても、そちらの方面にはあまり明るくなく、現時点での考えはここまで。
何か良い考えが思い浮かんだ方は、コメントください!
ブログ効率化のカギは「キーボードの設定」!Key Swapでオリジナルのキーボード配列にしよう
キーボードへの不満
ブロガーの皆さん、キーボード、使いづらくないですか?
今回は、キーボードの配列の話です。
フツーのキーボードを使用している人あれば、冒頭の質問に対しては、多かれ少なかれ同意していただけるのではないでしょうか。
ほんの少し調べただけでも、キーボードについての不満は山のように出てきます。
例えば、現在日本で最も普及しているQWERTY配列は、日本語を入力するのに適していないという意見。
また、不要なキーが異常に多いという意見。
私自身も、使わないキーが押しやすいところにある、また反対に、よく使うキーが指の届かないところにある、というキーボードの配列にげんなりしています。
そこで、私は「Key Swap」というソフトを使って、キーの割り当てを変更しています。
結構有名なソフトなようで、使い方についての情報は、ググればいくらでも出てきます。
作者様のHP 愛とゆりの部屋
http://www.asahi-net.or.jp/~ee7k-nsd/
KeySwap for XP-Vector
https://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se228667.html
KeySwapの使い方と、キーボード割り当て変更のおすすめ設定-パソ活動ラボ
キー割り当ての変更というのは、簡単に言えば、「本来Aという機能を持つキーを、Bという機能に切り替える」ということです。
今回は、私のキー割り当ての変更をご紹介しようと思います。
私はこれで、3割増しくらいで楽に文章を打ち込めるようになりました。
何かの参考になれば幸いです。
実践した変更
初めに、私が変更した設定をまとめると、以下のようになります。
【;(セミコロン)】→【Enter】
【@】→【BackSpace】
【:(コロン)】→【―】
【変換】→【、】
【カタカナ・ひらがな・ローマ字】→【。】
【左Alt】→【「】
【無変換】→【」】
【CapsLock】→【Tab】
キー自体は変えずに、ローマ字入力のルールを追加。詳細は後述。
「y」→「l」
人生が忙しい方は、ここまでで読めばとりあえず大丈夫です。
以下、変更の意図などを語っています。
変更方針
私は、パソコンを使い始めてからずっと、ローマ字入力を使っています。
そのため、ローマ字入力をする前提です。
また、テキストは一般的な日本語文章を想定しています。
基本的には、
使用頻度は高いが、打鍵しにくい位置にあるキーを、打鍵しやすい位置に配置するという作業をしていきます。
いざ、変更
【;(セミコロン)】→【Enter】
【Enter】って、日本語を入力する上で欠かせないものです。
それがホームポジションを完全に解除しなければ届かない所にあるのは、あまりにも非効率的すぎる。
しかも、画像を見てもらうと分かるんですが、私のキーボードの場合、横にあるでっけー括弧のせいで、【Enter】が相当遠くなっています。これは本当に不便です。
そこで、まず【Enter】の位置を変更します。
どこに移すかというと、【;(セミコロン)】の位置です。
右手小指直下の【;(セミコロン)】は、キーボードの中でも超一等地であるにもかかわらず、通常の日本語入力をしているときには使用しません。
【;(セミコロン)】を【Enter】に変えることで、本来であればホームポジションから3キー分、指を横に動かす必要があるところ、手を全く離すことなく打鍵することができるようになりました。
【@】→【BackSpace】
次に、【Enter】の上にある【BackSpace】です。
【BackSpace】もまた、使用頻度が高いにもかかわらず、手全体を動かさないと指が届かない位置にあります。
【BackSpace】は、【Enter】との位置関係を考慮して、【@】の位置に当てました。
こうすることで、元の【BackSpace】と【Enter】の位置関係を保ったまま、ホームポジション圏内に配置できました。
ひとまずこれで、ホームポジションから手を浮かすことなく、主要な入力ができるようになりました。
【:(コロン)】→【―】
次に、「指が届かないわけじゃないけど、ちょっとキツい」というキーを改善していきます。
まず、長音を打つのに用いる【―】です。
私の場合、パームレスト(手前のスペース)に置いている手のひらを15度ほど右にずらさないと、【―】を打鍵することはできません。そのままの状態だと、先ほど【BackSpace】を配置した【@】の位置までしか届かないのです。
そのような理由から、【:(コロン)】の位置に【―】を当てました。
初めは、【Enter】より右側に配置することに違和感があったのですが、明らかに【―】よりも【Enter】の方が使用頻度が高いため、打鍵しやすい【;(セミコロン)】の位置は【Enter】に譲りました。
【変換】→【、】/【ひらがな】→【。】
読点【、】と句点【。】を打鍵するためには、指を手前に曲げる動きが出てきます。
文章中に出てくる頻度も高いので、指が窮屈なように感じます。
そのため、この【、】と【。】も移動させます。
移動先は【変換】と【カタカナ・ひらがな・ローマ字】です。
【変換】を【、】に、【カタカナ・ひらがな・ローマ字】を【。】に変えたことで、稼働率が低い親指を有効に活用することができます。
【左Alt】→【「】/【無変換】→【」】
そうなると、左手の親指にも何かを当てたくなります。
私は文章を書くときに、よくカギカッコを使います。
そのため、【「】と【」】を空いている親指にあてがうことにしました。
【左Alt】と【無変換】を、それぞれ【「】と【」】に変更しました。
(初めは、左手親指に左右の矢印キーを当てていたんですが、気づいたらいつも元の矢印キーの方を使っていたので、この変更は取りやめました。)
これで、入力に際してのキー配列の変更は終わりです。
ちょっと待って!!!
あれ、じゃあ「+」とか「@」とか、打つときどうするの?
と、疑問を持たれるかもしれませんが、今のところ、困るような事態は起こっていません。
まず、ローマ字入力の時は、「プ」と打つと「+」が、「ア」と打つと「@」が、予測変換に出てくるようにしているので、ノープロブレムです。
また、英字入力の時も、【Fn(ファンクション)】+【/】で「+」が入力されます。
「@」はどうやっても出ないので、一度ローマ字入力にして入力します。
そんな感じで、たまぁーにめんどくさいこともあります。
でも、自分のメールアドレスは辞書登録してあるし、それ以外を入力することなんて滅多にないので、問題ないです。
アスタリスクとかコロンなんかも、ぜーんぶ変換で出てきます。
セミコロンに至っては、もはや使わないし。
【CapsLock】→【Tab】
よく忌み嫌われる【CapsLock】。
日本語入力において、無益どころか有害だとさえ言える、その機能。
そして、不意に押してしまいそうな、その位置。
放置しておくわけにはいきません。
上にリンクした記事のように、無効化するのは一つの手です。
しかし、こんなにも楽に指が届く、スーバーグレイテストスイートスポット。使わないのはもったいない。
そこで、【CapsLock】の位置に【Tab】キーを当ててみました。
え?なんでまた、そんな地味なキーを当てたの??
そう思いましたか?
侮るなかれ。【Tab】は以外と便利なんです。
下の記事に、その利便性がまとめられています。
https://excel-kaikei.com/pc002/#toc3
私が【Tab】をよく使うのは、入力フォームでのエリア移動と、ATOKの予測変換の選択の時。
案外よく使います。
すぐ上にも【Tab】はありますが、ビミョーに届かないんですよね、ここ。
いや、手をあと5ミリ前に出せば打鍵できます。でも、その5ミリがめんどくさい…。
なので、【CapsLock】が居座っていた特等席を、便利な【Tab】に明け渡しました。
「y」→「l」
もうだいぶ楽になってきましたが、まだやります。
「よく使うけど、ちょっと打鍵しにくいところにあるアルファベットランキング」
第一位
【Y】
異論はありませんね?(威圧)
【Y】は、ヤ行のみならず、拗音(「ゃ」「ゅ」「ょ」)でも使われる、非常に使用頻度の高いキーです。
にもかかわらず、右手人差し指を「エイッ」ってしなきゃいけないので、ちょっと大変な位置にあります。
よく使うキーなので、どうにか楽にしたい。でも、打ちやすいキーがそろそろ埋まってきている…。(色の付いている箇所が、キーを新しく割り当てたところ)
さてどうしたものか………
そこで、ホームポジションに注目してみます。
親指を除く8本の指は、【A】【S】【D】【F】、とんで【J】【K】【L】、そして【新Enter(旧セミコロン)】、これらのキーに乗っています。
その中で、もっとも使用頻度が低いキー、それは【L】です。
ホームポジションに位置するアルファベットのほとんどは、子音や母音として使っています。しかし、私のローマ字入力の方式だと、【L】は一切登場しません。
そのため、私が日本語を入力する上で、【L】は全く必要としていません。
しかし、それは「日本語を入力する上で」の話です。
いくら日本語の文章を打つことがほとんどだと言っても、ときには英語を入力することもあります。
そのため、【L】のキーが無くなってしまうのは困ります。
そこで、私はATOKの「ローマ字カスタマイズ」の設定を変更しました。
ローマ字に対応するかなを変更する-ATOK
http://support.justsystems.com/faq/1032/app/servlet/qadoc?QID=041228
これは、ローマ字入力の際の《「ka」とアルファベットを打つと「か」という仮名に変換する》みたいなルールを変更する機能です。
例えば、
本来のローマ字入力では、《「kya」と打つと「きゃ」に変換する》、という設定です。
そこで、「ローマ字カスタマイズ」で、《「kla」と打つと「きゃ」に変換する》という設定を追加します。
すると、【Y】のキーを使わずに、「kla」で「きゃ」が入力できるようになります。
これと同様に、ローマ字入力で「y」を使う全ての仮名に対して、「l」でも入力できるように設定。
すると、【Y】のキーを全く使わずに、全ての仮名が打てるようになりました。
しかも、キー自体は【Y】【L】のままなので、英語を打つときはいつも通りに打てばいいのです。
キーの割り当てを変更しなくても、こんな方法もあるのです。
まとめ
長くなってしまいましたが、私のキーボードの配列変更を改めてまとめると、以下のようになります。
割り当てるキー | 割り当てる場所 |
---|---|
【Enter】 | 【;(セミコロン)】 |
【BackSpace】 | 【@】 |
【―】 | 【:(コロン)】 |
【、】 | 【変換】 |
【。】 | 【ひらがな】 |
【「】 | 【左Alt】 |
【」】 | 【無変換】 |
【Tab】 | 【CapsLock】 |
「y」→「l」 ローマ字入力の設定によって対応 |
ちょっとでも「良いな」と思うアイディアがありましたら、ぜひ実践してみてくださいね。
どれか1つ取り入れるだけでも、タイピングが大幅に快適になること間違いなし!
入り間違えるトイレ考
突然ですが、
皆さんはトイレに入り間違ったことはあるでしょうか。
はい、いきなり意味が分からないですね。
すみません。
つまり、
男子であるのに女子トイレに入ってしまった。
もしくは、女子であるのに男子トイレに入ってしまった。
このような経験、皆さんはお持ちでしょうか。
私はあります。
ある日の夕刻。用事が済み、特に急ぐこともないので、悠々と帰り支度をしていました。
それも終わり、さて帰ろうかというとき、何気なくトイレに入ると……
ん? おぉ!?
あれ!? 見慣れた立ち小便器が無い!!
なんで個室ばっかりなの!?!?
えっ??????????????????
なんで!?!?!?!!?!?!?!?!?!
そうです。心も体も男の私は、誤って女子トイレに入ってしまったのです。
誤って、ですよ。ホントに。ホントですって。*1
幸い、その場に人はいらっしゃらなかったので事無きを得ましたが、自分自身とても驚きました。
なんてったって、完全に無意識だったんですから。
そのときの感情は、羞恥心以上に、自分の行動に対する驚愕が強かったのを、今でも覚えています。
しかし、話はここからです。
これと全く同じ出来事が、さらにもう一度ありまして。
このときもまた、全く意識せずに、気づいたらそこに立っていました。
1度目と同様、さもそれが当然であるかのように、自然と足を踏み入れていました。
2度目はさすがに絶望しましたね。何をやっているんだ自分は、と。
原因の所在
このようなことが2度も起こり、私は考えました。
その原因は、どこにあるのかと。
まず、押さえておかなければいけないのは、これら2回の事故、実はどちらも同じトイレで起こったということです。
逆に言えば、それ以外のトイレでは、このようなことは今まで一切ありませんでした。
ここからわかること。
それは、(自分の注意力欠如はさておき、)そのトイレ自体に原因があって、入り間違いが起こっていたということです。
決して頻繁に使用するトイレではありませんでした。それでも、2度も同じミスが起こったのです。
それを考えると、このトイレに何らかの仕掛けが隠されているはずです。
そうでなければ、他のトイレでも同じようなことが起こっているはずですから。
ここからは、入り間違いをしてしまった具体的な原因を探っていきます。
原因究明
何に誘発された出来事だったのか。
結論を先取りすると、このトイレ、サインの掲示のしかたがわかりにくかったんです。
そうです。あれですよ、あれ。
サインの掲示がわかりにくいと言いましたが、例のピクトグラムが原因でトイレに入り間違ってしまうという事故は、既に報告されていました。
「6年目にして謎が解けた」何度も間違えた学校のトイレ、その理由にハッとする
grape編集部
しかし、私が2度入り間違ったトイレのピクトグラムはこれです。
………とっても普通。
とりあえず、男子と女子の見分けはつきますね。
そう、ピクトグラムが悪いわけじゃなかったんです。
では、次の写真を見てください。
この写真は、まさに、私がトイレに向かうときの状況そのままを写したものです。
さて、皆さんはどちらが男子トイレで、どちらが女子トイレだと思いますか。
私はそのとき、この景色を見て「左が女子トイレ、右が男子トイレ」だと判断しました。
そう見えますか?
しかし、実際はというと、左は男子トイレ、右は女子トイレだったのです。
状況を整理しましょう。
男女が並んでいる方のサインは、左に女性が、右に男性が描かれています。
サインボードは、横並びのトイレに対して垂直に設置されていますが、右に90度、入口に照らし合わせるような方向への脳内回転運動を経て、「左が女子トイレ」「右が男子トイレ」ということを表す表示であると認識しました。
しかし、その判断結果は、実際のトイレの配置とは食い違っているのです。
サインボードから誤った情報を得たことで、私はトイレに入り間違った。
状況証拠から考えて、これはおそらく正しい推論でしょう。
なぜ、このようなサインが…
そもそも、このサインボードは何の役割を果たしているのでしょうか。
おそらく、これは単に「そこにトイレがある」という案内であり、男子トイレと女子トイレの位置を表示しているものではないと思われます。
写真のように正面に立つと、本来の「男子トイレ」と「女子トイレ」の表示が現れます。
そのため、歩行者が脇から見たときに、「そこにトイレがある」ということを知らせることができれば、このサインボードの任務は達成されるのです。
しかし。
すっきりとして見通しのよい廊下、シックなデザインのトイレ入り口。非常に少ない視覚情報。その中で、ニーズと完全に合致した、まとまった情報が目に入ってきます。
それが、あのサインだったのです。
私が入り口に至った時点では、既に「右が男子トイレである」という暗示にかかりきっているほど、このサインの無自覚な誘導は強烈なものでした。
(それに比べ、「女子トイレ」の表示はあまりにも影が薄かった。)
対人関係において、第一印象はその後に強い影響を及ぼすと言いますが、トイレについても同じように、一番初めに見たサインがそのトイレの本質だと思ってしまった。
そういうわけです。
同じ事故が繰り返されないためにも、誤解のないような表示のしかたを求めます。
さて、真面目な話をすると、ピクトグラムのデザイン問題のように、「表示がわかりにくい」という事例はよくあります。そのため、デザイナーは細心の注意をはらい、精一杯に技巧を凝らすでしょう。
しかし、今回の例のように、実際に設置してみなければ分からないとか、デザインだけの問題ではないという「不測の事態」は、十分に起き得ることがわかります。
ときには全体を眺め、実際の現場を見つめることが大切かもしれません。
きっと、デザイニング以外についても、同じことが言えるでしょう。
実は、まだ一つの謎が残っている。
先ほどの写真で見えていた面の、裏側を見てほしい。
お気づきだろうか。
こちらの面には、左側に男性が、右側に女性が描かれている。
これだったら、入り間違うことはない。
このサインボードは、2枚のプレートを貼り合わせることで作られている。
ということは、表と裏、2枚のプレートを別の構図で発注したということだ。
一方は「左が女、右が男」、
もう一方は「左が男、右が女」と。
通常、何らかの意図がなければこのようなことはせず、同一のものを2枚発注するのではなかろうか。
これは、ただの偶然なのか。それとも……
*1:ホントです。
「正しい言葉」とは何か
テレビ番組で
「~という言葉の正しい意味、皆さんは知っていますか?」
「あなたの日本語の使い方は、本当に正しいですか?」
このような、「正しい日本語」を教授するテレビ番組の企画をいたる所で目にします。
皆さんは、このような文言を聞いて、どのように思うでしょうか。
「なるほど、それが正しいんだ。」
「今度から気をつけなきゃ。」
このように考える人が大半なのではないでしょうか。
「正しい言葉」
それでは、「正しい言葉」とは一体何なのでしょうか。
時代を経るにしたがって起こる言葉の変化は、往々にして「言葉の乱れ」とされます。
「乱れ」と言うときは同時に、変化前の言葉が「正しい言葉」、変化後の言葉が「間違った言葉」と、ラベリングされているということになります。
先のような問いを投げかけるテレビ番組でも、「以前は、~という使い方をしていた」というところから、誤用を指摘する論理が展開されることが多いです。
昔の言葉が正しいのか
なぜ、言葉が変わることが「乱れ」なのでしょうか。また、なぜ従来の言葉が「正しい」と言えるのでしょうか。
例えば、
「江戸時代では、このような使い方をしていた。だから、皆さんの使い方は間違っている。」
従来使われていたことこそが、「正しい日本語」の基準だという考えから生まれる、この言説。
では、その江戸時代の言葉は普遍性を持つようなものなのでしょうか。
否。その頃の言葉だって、長い年月を経て変わってきた結果であるはずなのです。江戸時代の言葉とそれ以前の言葉の間には、必ず差異があります。
それに、古くから存在する言葉の方が「正しい」のなら、次のようなことになってしまうでしょう。
「正しい」とされた江戸時代の言葉を考えれば、それよりも室町時代の言葉の方が「正しい」はずだし、その室町時代の言葉よりも、鎌倉時代の言葉の方が「正しい」。さらに、鎌倉時代の言葉よりも、平安時代の言葉の方が「正しい」。
このようにしていくと、帰納法的に、最古の言葉が最も「正しい」ということになります。
この結果が真ではないことは、直観的に理解できるでしょう。
今までの言葉が「正しい」、新しい言葉は「間違っている」とする論理は、極めて近視眼的な見方によるものです。
新しい言葉はスゴイ
言葉は、意味をより簡単に伝えられるように、いろいろなニュアンスを伝えられるように、楽に伝えられるように・・・そのように変化していきます。
つまり、言葉の変化は、「進化」なのです。
有名なところでいえば、「ら抜き」がこの例です。
「ら抜き」をすることによって発生する効果の一つに、可能の弁別機能があります。これは、可能、受け身、尊敬など、複数の意味がある「~られる」の形から「ら」を脱落させることで、可能の意味が明確になる、というものです。
(気が向いたら、後々これについて書くかも。)
これは、従来の日本語には存在しなかった、新しい便利さです。
新しい言葉というのは、それまでに無かった価値をも備えていると言えます。
新しい言葉を使う意義
言葉は、時代を反映し、それに寄り添うように変化します。
それが文法であっても語彙であっても。
平安時代の言葉を使って、現代の会話の内容を忠実に再現することは不可能でしょう。
それは、平安時代の言葉が、平安時代の事柄を表現するためのものだからです。
現代において表すべき事柄を、平安時代の事柄を表す言葉で、完全に表現することはできません。
つまり、現代のことは、現代の言葉でしか表せないということです。
ここでは、わかりやすくするために平安時代という例を出しましたが、もっとミクロな視点に立っても同じことが言えます。
令和の時代に新しく現れた言葉は、令和の時代を表すために生まれてきた言葉なのです。
確かに、令和の事柄だって平成の言葉で表せると言われればそうかもしれません。しかし、令和に言葉が新しく誕生し、使われるということは、令和の言葉だからこそ表現できるニュアンス、マインドが存在するということです。その繊細な機微は、決して平成の言葉への翻訳ができないものなのです。
言葉を「いま」使用する以上、「いま」の言葉を用いるのが妥当ではないでしょうか。
新しい言葉は、現代を表すために最適化されたものなのです。
言葉は道具である
ここまで、新しい言葉の正当性を見てきました。
それでは、つまるところ「正しい言葉」とは何なのでしょうか 。
「言葉」とは、私たち人間の営みの中で自然発生した、コミュニケーションツール(道具)です。
我々は通常、道具に対して「正しい道具」「間違った道具」という言い方をするでしょうか。
多分、皆さんしませんね。
まぁ、あえてするとしたら、道具が果たすべき機能を果たしているかどうかという議論においてでしょうか。
一般的な道具について考えてみましょう。
田を耕すという役割を持つ鍬(くわ)。
これについて、もし十分に耕す能力を持たないのであれば、それは「間違った道具」と言えるかもしれません。
しかし、今までの鍬とは全く異なる形を持ち、異なる操作方法を必要とする「耕運機」に対して、「新しい」という理由だけで「間違った道具」と批判するのはナンセンス。
田を耕すという役割を果たしている以上、耕運機は正当な道具として扱えます。
また、鍬に比べて効率よく田を耕せる以上、優れた道具であることは否めません。
同様に、言葉はコミュニケーションをとるという機能を備える道具です。その点から考えると、コミュニケーションをとるという役割が果たせているのであれば、それが「正しい言葉」であるか「間違った言葉」であるかという議論を交わすこと自体が、無意味なことでしょう。*1
(むしろ、新しいものを遠ざけようとする傾向は、自然な流れから逆行しているとさえ言えます。)
言葉を守るということ
ですが、従来の言葉が消え去っても良いと言っているわけではありません。
技術の進化によって、農作業の道具は鍬や鎌、千歯こきなどから、各種大型農機具に進化していきました。それに伴い、従来の道具はあまり使われなくなりました。
しかし、小学生が総合学習などの形で、手作業による農業を体験する機会を持つことがありますね。また、博物館や資料館といった場所では、過去に使われていた道具が展示されています。
これらは、過去に存在した道具に現代人が触れることで、その存在や価値を保存する行為だと言えるでしょう。
便利なものだけ残していく、という態度をとることは、既に持っていた財産を捨てるという行為に他なりません。それはれっきとした損失ですよね。
このような点において、従来実際に使われていた道具に触れるという行為には大きな意義があると考えます。
それと同じように、今は使い方が変わってしまった言葉、使われなくなってしまった言葉にその都度触れ、かつて存在した言葉を再認識しようとする意識は、ごく自然なものだと言えるでしょう。そしてまた、重要な営みであると言えます。
そのような意味では、テレビなどで、今は使い方が変わってしまった言葉を取り上げるなんてことは、大いにやっていただきたいと思っています。
しかしですよ。問題はその先にあります。
農具の例に戻ります。
かつての道具を使った農業体験で、「古い道具を使うのが正しいんだ」、「新しい道具を使うのは間違っている」ということを言われたらどう思いますか。ヤバいですよね。
確実に、古い道具より新しい道具の方が便利です。生産性を高めるために、鍬と耕運機のどちらを使うべきかと言われれば、それは間違いなく耕運機でしょう。
新しい言葉を「間違い」という概念によって糾弾することは、「古い道具を使って農業をしろ」と言っているようなものなのです。
このような考え方は、わざわざ鍬を使って農業の効率を下げるが如く、コミュニケーションをとるという言葉の機能を抑制することに繋がりかねません。
特に、テレビのようなマスメディアが行う、「これが正しい言葉である」という言語政策的なラベリングは、大きな影響力を持ちます。その力が故に、国民の自由な言語コミュニケーションを妨げる危険性があるという自覚は、十分に持ってもらいたいものです。
また、個人レベルで言えば、
「新しい言葉だけ知っていれば良い。」
「古い言葉しか許さない。」
そんな意識を持ってしまうことは、非常にもったいないと思います。
「新しい言葉も使うし、従来の言葉も知っている。」
このような言葉の使い手を目指したいですね。
*1:言葉の変化によって、異世代間のコミュニケーションが円滑に進まないという問題は、一考の余地があるかもしれない。