卒論を公開したい!!
私の生涯で最大のworksは、おそらく、数ヶ月前に書いた卒業論文になるでしょう。後にも先にも、論文レベルの大きな何かを生み出すことは、きっとないと思います。
しかし、そのようなものが、提出のための指導を除き、一切誰の目にも触れないのは少し寂しいもの。
そこで私は、卒業論文をここで公開しようと考えました。
学問の肥やしにもならぬようなものを、誰かに読んでもらう道理はありませんが、ブログだったらいいでしょ。何をあげようとも。(ハナホジ
自己満足ですよん!!
ということで、
「引用「~と思う」における「だ」の脱落 ――〈主観明示用法〉と〈不確実表示用法〉を中心に――」
です!
どうぞ、ご査収ください。
ただリンクを貼り付けるだけだと味気ないですね。
でも、解説とすると長くなってしますので、ちょっとテキトーな抄録、もしくは、ちょっと詳しい目次、みたいなものを残します。
内容解説
この論文のテーマは、「引用句末のダの脱落」、いわゆる「だ抜き言葉」です。
ここでは、引用の中でも「~と思う」に絞って取り上げています。
まず、ダの脱落の発生傾向をつかんでいきます。
そのために、「~と思う」を意味の面から2つに分類しました。
〈主観明示用法〉
「と思う」形式の文のうち、個人的な意見を述べるもの。
例:「戦後の正しい教育を受けた若者に正しい判断をしてもらわねばならないと思います。」
〈不確実表示用法〉
「と思う」形式の文のうち、情報を不確実なものとして述べるもの。
例:(「あいつ、大学、来てるかな。」と問われて)
「はあ、来てると思います。」
この分類に従って「~と思う」の用例を2つに分け、それぞれのダの脱落率を調べました。
その結果、〈不確実表示用法〉に比べ、〈主観明示用法〉で脱落が起こりやすいという結果が出ました。
次は、ダの脱落が文にどのような影響を与えるかについてです。
ここでは、「引用」と「ムード形式」の対立から論を進めています。
ここで言う「ムード形式」が何であるかを簡単に説明すると、引用動詞「~と思う」が、助動詞「~だろう」と同じ働きをするということです。
「思う」は本来、「思考する」という行為を表す動詞です。しかし、〈不確実表示用法〉の「思う」は、行為を表しているというよりも、話し手の捉え方(けっこう確信度が高い推量)を表しています。
例:「あいつは大学に来てると思います。」
この文の「と思う」が、「だろう」と同じような働きだということです。
この「引用」と「ムード形式」という形式の違いは、〈主観明示用法〉〈不確実表示用法〉で区別される用法の違いと深く関わっています。
詳しくは論文の中で述べていますが、〈主観明示用法〉の文は典型的な「引用」であり、〈不確実表示用法〉の「思う」は、「ムード形式」に近い傾向が見られます。
形式と用法は相関関係にあり、互いに連動しているのです。
最後に、これを前提とした上で、ダを脱落させると文にどのような影響を与えるのかを考察しています。
いろいろすっ飛ばして極々簡単に言うと、ダの脱落は、形式を「ムード形式」から「典型的な引用文」へ、意味を〈不確実表示用法〉から〈主観明示用法〉へと変化させる力を持っているという結論になっています。
図示すると、以下のようになります。
「ダの有無」、「形式」、「用法」の3つの要素が連動しており、ダを脱落させることで、文の形式と用法を、左辺から右辺に変えるのです。
ダ入り → ダ脱落
形式 〈不確実表示用法〉 → 〈主観明示用法〉
用法 ムード形式 → 典型的な引用文
以上、内容をざっくりざっくりとまとめてみました。骨組みだけしかピックアップしていないので、なんでこうなるの?というところは多々あるかと思います。
まぁ、あくまで「ちょっと詳しい目次」なので、許してください。
反省点が、あるんです。
そう、ものを書いたら常に後悔がつきまといます。
ここからは、その反省点を何点か書いていきます。
①そもそも、ダが脱落したと言えるのか?
論をはじめるにあたり、私は「引用でダの脱落が起こる」という前提から入っています。
しかし、この現象は本当に「脱落」と言えるのか、という指摘を受けました。
つまり、「名詞(形容動詞)+だ+と思う」が基本の形であるとするのではなく、「と思う」内部に「だ」が入るかどうかは、品詞にかかわらず自由であると考えることはできないか、という指摘です。
これは、「~と思う」という文のニュートラルな状態が、どんな思考であるかを述べる〈主観明示用法〉であり、それに断定や判断を表す「だ」を付けることで、結果的に〈不確実表示用法〉になるという考え方です。
この点については、あまり考えていなかったことだったので、目から鱗でした。
これを解決するためには、例えば、引用でのダの有無を現代から遡って通時的に観察するなどしなければいけないかもしれません。
そこで、昔の発話では、今よりもダが入っている割合が高いとなれば、ダが脱落していると言えるでしょう。
(データの少なさから、話し言葉では難しいかもしれませんが。)
ただ、私自身の規範意識では、直接引用でない限りはダが必須であるため、「これは脱落現象である」という説明の方がなじむな~という程度に考えています。
②先行研究の読み違い
これは、結構致命傷ともなり得る反省点です。
先行研究として取り上げた森山(1992)では、〈不確実表示用法〉およびムード形式になるケースを、「思う」が言い切りの形である場合に限定しています。
私は、この部分を読み違えており、「思う」が過去や否定の場合にもこの区分を適用してしまっていました。
たまたま論文内では大きな不具合には繋がらなかったものの、定義が異なると徐々に歪みが出てしまうことが考えられるため、あらかじめ定義を拡張すべきだったなぁと反省しています。
③客観性に乏しい
「終わりに」でも書いたのですが、分類や分析を内省に頼るところがかなり大きくなってしまいました。
つまり、「ゑ?わいはそう思はざるよ??」と言われればそこまでなのです。
研究するにあたっては、内省だけではなく、誰が試行しても再現可能な、科学的な論証が求められます。(現代語を対象とした言語学では、常に付きまとう課題なのかもしれません。)
よし、こんな感じで終わりにしよう。
書いているうちに、当時のエキサイティングな記憶がよみがえってきました。
やっぱり、研究ってエキサイティングですよ!!!
最後まで読んでくださってありがとうございます。
質問やご指摘がありましたら、コメントでよろしくお願いします!