内省ログ

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「正しい言葉」とは何か

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テレビ番組で

 

「~という言葉の正しい意味、皆さんは知っていますか?」

「あなたの日本語の使い方は、本当に正しいですか?」

 

このような、「正しい日本語」を教授するテレビ番組の企画をいたる所で目にします。

 

皆さんは、このような文言を聞いて、どのように思うでしょうか。

「なるほど、それが正しいんだ。」

「今度から気をつけなきゃ。」

このように考える人が大半なのではないでしょうか。

 

 

「正しい言葉」

 

それでは、「正しい言葉」とは一体何なのでしょうか。 

 

時代を経るにしたがって起こる言葉の変化は、往々にして「言葉の乱れ」とされます。

「乱れ」と言うときは同時に、変化前の言葉が「正しい言葉」、変化後の言葉が「間違った言葉」と、ラベリングされているということになります。

 

先のような問いを投げかけるテレビ番組でも、「以前は、~という使い方をしていた」というところから、誤用を指摘する論理が展開されることが多いです。

 

 

昔の言葉が正しいのか

 

なぜ、言葉が変わることが「乱れ」なのでしょうか。また、なぜ従来の言葉が「正しい」と言えるのでしょうか。

 

例えば、

「江戸時代では、このような使い方をしていた。だから、皆さんの使い方は間違っている。」

 

従来使われていたことこそが、「正しい日本語」の基準だという考えから生まれる、この言説。

 

では、その江戸時代の言葉は普遍性を持つようなものなのでしょうか。

否。その頃の言葉だって、長い年月を経て変わってきた結果であるはずなのです。江戸時代の言葉とそれ以前の言葉の間には、必ず差異があります。

 

それに、古くから存在する言葉の方が「正しい」のなら、次のようなことになってしまうでしょう。

「正しい」とされた江戸時代の言葉を考えれば、それよりも室町時代の言葉の方が「正しい」はずだし、その室町時代の言葉よりも、鎌倉時代の言葉の方が「正しい」。さらに、鎌倉時代の言葉よりも、平安時代の言葉の方が「正しい」。

このようにしていくと、帰納法的に、最古の言葉が最も「正しい」ということになります。

 

この結果が真ではないことは、直観的に理解できるでしょう。

今までの言葉が「正しい」、新しい言葉は「間違っている」とする論理は、極めて近視眼的な見方によるものです。

 

 

新しい言葉はスゴイ

 

言葉は、意味をより簡単に伝えられるように、いろいろなニュアンスを伝えられるように、楽に伝えられるように・・・そのように変化していきます。

 

つまり、言葉の変化は、「進化」なのです。

 

有名なところでいえば、「ら抜き」がこの例です。

「ら抜き」をすることによって発生する効果の一つに、可能の弁別機能があります。これは、可能、受け身、尊敬など、複数の意味がある「~られる」の形から「ら」を脱落させることで、可能の意味が明確になる、というものです。

(気が向いたら、後々これについて書くかも。)

 

これは、従来の日本語には存在しなかった、新しい便利さです。

 

新しい言葉というのは、それまでに無かった価値をも備えていると言えます。

 

 

新しい言葉を使う意義

 

言葉は、時代を反映し、それに寄り添うように変化します。

それが文法であっても語彙であっても。

 

平安時代の言葉を使って、現代の会話の内容を忠実に再現することは不可能でしょう。

それは、平安時代の言葉が、平安時代の事柄を表現するためのものだからです。

現代において表すべき事柄を、平安時代の事柄を表す言葉で、完全に表現することはできません。

つまり、現代のことは、現代の言葉でしか表せないということです。

 

ここでは、わかりやすくするために平安時代という例を出しましたが、もっとミクロな視点に立っても同じことが言えます。

 

令和の時代に新しく現れた言葉は、令和の時代を表すために生まれてきた言葉なのです。

確かに、令和の事柄だって平成の言葉で表せると言われればそうかもしれません。しかし、令和に言葉が新しく誕生し、使われるということは、令和の言葉だからこそ表現できるニュアンス、マインドが存在するということです。その繊細な機微は、決して平成の言葉への翻訳ができないものなのです。

 

言葉を「いま」使用する以上、「いま」の言葉を用いるのが妥当ではないでしょうか。

 

新しい言葉は、現代を表すために最適化されたものなのです。

 

 

言葉は道具である

 

ここまで、新しい言葉の正当性を見てきました。

 

それでは、つまるところ「正しい言葉」とは何なのでしょうか 。

 

「言葉」とは、私たち人間の営みの中で自然発生した、コミュニケーションツール(道具)です。

 

我々は通常、道具に対して「正しい道具」「間違った道具」という言い方をするでしょうか。

多分、皆さんしませんね。

まぁ、あえてするとしたら、道具が果たすべき機能を果たしているかどうかという議論においてでしょうか。

 

 一般的な道具について考えてみましょう。

田を耕すという役割を持つ鍬(くわ)。

これについて、もし十分に耕す能力を持たないのであれば、それは「間違った道具」と言えるかもしれません。

しかし、今までの鍬とは全く異なる形を持ち、異なる操作方法を必要とする「耕運機」に対して、「新しい」という理由だけで「間違った道具」と批判するのはナンセンス。

田を耕すという役割を果たしている以上、耕運機は正当な道具として扱えます。

また、鍬に比べて効率よく田を耕せる以上、優れた道具であることは否めません。

 

同様に、言葉はコミュニケーションをとるという機能を備える道具です。その点から考えると、コミュニケーションをとるという役割が果たせているのであれば、それが「正しい言葉」であるか「間違った言葉」であるかという議論を交わすこと自体が、無意味なことでしょう。*1

(むしろ、新しいものを遠ざけようとする傾向は、自然な流れから逆行しているとさえ言えます。)

 

 

言葉を守るということ

 

ですが、従来の言葉が消え去っても良いと言っているわけではありません。

 

技術の進化によって、農作業の道具は鍬や鎌、千歯こきなどから、各種大型農機具に進化していきました。それに伴い、従来の道具はあまり使われなくなりました。

 

しかし、小学生が総合学習などの形で、手作業による農業を体験する機会を持つことがありますね。また、博物館や資料館といった場所では、過去に使われていた道具が展示されています。

これらは、過去に存在した道具に現代人が触れることで、その存在や価値を保存する行為だと言えるでしょう。

 

便利なものだけ残していく、という態度をとることは、既に持っていた財産を捨てるという行為に他なりません。それはれっきとした損失ですよね。

このような点において、従来実際に使われていた道具に触れるという行為には大きな意義があると考えます。

 

それと同じように、今は使い方が変わってしまった言葉、使われなくなってしまった言葉にその都度触れ、かつて存在した言葉を再認識しようとする意識は、ごく自然なものだと言えるでしょう。そしてまた、重要な営みであると言えます。

 

そのような意味では、テレビなどで、今は使い方が変わってしまった言葉を取り上げるなんてことは、大いにやっていただきたいと思っています。

 

しかしですよ。問題はその先にあります。

農具の例に戻ります。

かつての道具を使った農業体験で、「古い道具を使うのが正しいんだ」、「新しい道具を使うのは間違っている」ということを言われたらどう思いますか。ヤバいですよね。

 

確実に、古い道具より新しい道具の方が便利です。生産性を高めるために、鍬と耕運機のどちらを使うべきかと言われれば、それは間違いなく耕運機でしょう。

 

新しい言葉を「間違い」という概念によって糾弾することは、「古い道具を使って農業をしろ」と言っているようなものなのです。

このような考え方は、わざわざ鍬を使って農業の効率を下げるが如くコミュニケーションをとるという言葉の機能を抑制することに繋がりかねません。

 

特に、テレビのようなマスメディアが行う、「これが正しい言葉である」という言語政策的なラベリングは、大きな影響力を持ちます。その力が故に、国民の自由な言語コミュニケーションを妨げる危険性があるという自覚は、十分に持ってもらいたいものです。

 

また、個人レベルで言えば、

「新しい言葉だけ知っていれば良い。」

「古い言葉しか許さない。」

そんな意識を持ってしまうことは、非常にもったいないと思います。

 

「新しい言葉も使うし、従来の言葉も知っている。」

このような言葉の使い手を目指したいですね。

 

 

 

*1:言葉の変化によって、異世代間のコミュニケーションが円滑に進まないという問題は、一考の余地があるかもしれない。